普通に仲が良かったはずの優樹と僕は、学年があがり会話をすることもなくなった。
優樹だけじゃない。いつの間にか誰かと会話するには隙を見せてならない。
そんな風になっていた六年生の秋のある日、偶然優樹と忘れ物をとりに学校へ行くことになった。
人気のないはずの学校の教室で、僕たちは竜退治の騎士に出会う。
児童書というと、教訓ありきのほんわかお説教話とか、性善説まっしぐらというイメージをお持ちの方もいらっしゃうでしょうが、実は物語的にもおもしろく、しかし内包されるテーマがちっきり分かりやすくしかもおしつけがましくもない、という良作が結構多いんですよ。
(読者対象がどうしても子供、ということで、「伝わりやすい」表現であることはありますが。)
今ふと思ったのだけれど、一般書に比べ児童書や絵本が古くからの作品や大御所の作品が常に支持され続けてるのって、結局のところ、子どもの普遍的な部分を扱ってるからなんだろうね、と思います。環境や置かれる状況がいくら変わってもね。究極人間の普遍的な部分。大好きなもの、大好きは人、大切なこと。いくら今風な描写をいれても、そこに独りよがりじゃない、共感が得られないとダメなわけで。大御所と呼ばれる方はその辺にぬかりがない。
最近の児童書をちらちら読ませてもらって思うことあったので、少し書いてしまいました。この作品の作者、岡田淳さんもそんな作品を書かれる作家さんのお一人。
もともと学校の先生だった方なので学校描写(なんじゃそりゃ)はとてもリアリティがある。
でも、誰もいなくなった学校忍び込む、というのはもう完全にファンタジーになってしまいましたね。
今では大抵どこもセキュリティがかかってる。
でもそういった非日常にロマンがありますわな。なにか日常と違った冒険への扉が。
(そいや、1年くらい前に子ども創作小説をいくつか読ませてもらったけど、現実から異世界への逃避願望MAXな作品ばっかでちょっと切なくなった記憶。そしてゲームやりすぎ。)結局二人が見たものはなんだったのか?ジェラルドはやっぱりただの劇団員なのか?
やわらかい部分を持った二人だったからこそ見たその姿。
伝えたいテーマと物語部分での危ういバランス。
読んだ人の解釈次第。
結局○○だろ?って人は、その人にとってはそういう物語だし、いや、そんなストレートではなくて…と深読みする人にはそういう結論。
まあ、ちょっとテーマ強すぎそのままかな…という気もするけれど、そうやって「これ」なのかな?と考えさせること。
それでもうこの物語は成功かな。だってそれがまさしく趣旨でもあるもん。
おもしろかったです。